LOGIN昔なら、その場で出ていたかもしれない。
「決まったら教えて。……途中でも、話したくなったら」 景都がこちらを見る。「候補者も権限も聞かないのか」「聞きたいけど、今はいい」 少し黙ってから、景都が笑った。「珍しいな」「その言い方は失礼」 改札前に着く。 会社の話はまだ途中だ。「景都が全部を決めない会社って、まだ想像できない」「俺も完成形は分からない。だから、いきなり全部は渡さない」「仕事の景都が、分からないって普通に言うのは珍しいね」 少し嫌そうな顔をしながらも、景都は否定しなかった。 改札の向こうに電車の案内が出る。 私は時計を見て、一歩だけ後ろへ下がった。「一本遅らせて帰る。あと五分だけ、会社の話の続きを聞きたい」 景都も改札へ入らず、柱の脇へ寄った。 五年間を埋めるには短い。それでも、全部を聞き出さず、途中のまま持ち帰れることが、今の私昔なら、その場で出ていたかもしれない。「決まったら教えて。……途中でも、話したくなったら」 景都がこちらを見る。「候補者も権限も聞かないのか」「聞きたいけど、今はいい」 少し黙ってから、景都が笑った。「珍しいな」「その言い方は失礼」 改札前に着く。 会社の話はまだ途中だ。「景都が全部を決めない会社って、まだ想像できない」「俺も完成形は分からない。だから、いきなり全部は渡さない」「仕事の景都が、分からないって普通に言うのは珍しいね」 少し嫌そうな顔をしながらも、景都は否定しなかった。 改札の向こうに電車の案内が出る。 私は時計を見て、一歩だけ後ろへ下がった。「一本遅らせて帰る。あと五分だけ、会社の話の続きを聞きたい」 景都も改札へ入らず、柱の脇へ寄った。 五年間を埋めるには短い。それでも、全部を聞き出さず、途中のまま持ち帰れることが、今の私たちには必要だった。 あと五分だけ、知らない景都の話を聞いた。 景都の会社にCOOを置く話は、数日後もまだ決まっていなかった。 夕食の帰り、信号待ちで彼がスマートフォンを開いた。画面には組織図と承認権限表が重なっている。一定額以上の契約、人事、危機対応の初動、重要顧客への例外判断。赤い印がついた項目ほど、矢印は最後にCEOの欄へ集まっていた。「例の権限表?」 景都は頷き、私にも読める角度へ画面を傾けた。「契約も採用も、ここまで景都が見ていたの?」「金額と役職による。それでも多すぎた。日常の執行はCOOへ渡して、承認も経営会議へ分ける」 青信号になっても、景都はすぐ歩き出さなかった。親指で赤い印を一つ消し、別の欄へ移す。書類の上なら簡単な操作なのに、顔にはわずかな迷いが残っていた。 自分がいなければ進まない仕組みを崩したい。それでも、自分が決めた方が早い案件を手放すのは怖いのだと、景都は画面を見たまま言った。昨日も、移動中の一時間だけで三件の承認が止まったらしい。現場は待てた。だが
全部知っていた夫ではなく、今から知る人。 エレベーターへ向かう途中、若い社員が景都へ「お先に失礼します」と頭を下げた。 景都は時計を見た。「今日、もう終わり?」「はい。明日朝やります」「分かった。帰って」 その言い方も、私には知らないものだった。 夫だった頃、景都が部下に何を言っていたか、私はほとんど知らない。 エレベーターの鏡に並んだ私たちを見ながら、私はその方が少し面白いと思った。 LATTICE SHIELDを出たあとも、会社の壁にあった写真が頭に残っていた。 三年前の景都。去年の景都。 その時間に私はいなかった。 駅まで歩きながら聞く。「社員、国内だけで何人になったの?」「二百八十くらい。君が知っていた頃は九十前後だった」 百九十人分、知らない名前が増えている。会社の壁に残っていた写真と同じで、数字にも私のいない五年があった。「長かったね。景都自身は、ほかに何が変わった?」「コーヒーを減らした。腰も一度痛めた」 景都は腰へ手を当てるでもなく、歩調を変えずに答えた。知らなかった時間は、痛みの大きさより、その平然とした横顔に表れていた。「腰のこと、全然知らない」「離婚したあとだ。言う理由がなかった」 責められない答えほど、時間の長さだけが残る。「そういう小さいことが、たくさんあるんだね」 私にもある。 部署を一度移ったこと。髪を肩まで切ったこと。朝はコーヒーより紅茶を飲むようになったこと。桃のゼリーを好きになったこと。 どれも、夫婦だった頃なら、その日のうちに知っていたような変化だ。 信号が赤になり、景都が止まる。「会社の経営の仕方も変えようと思ってる。大きくなって、重要な承認が今も俺へ集まりすぎてる」 景都は前を見たまま言った。「景都が決めるのが一番早いから、そうなったんでしょう」「ああ。短期的には早い。でも、俺が一日いないだけで止まる会社になる。今は、その方が危険だ」 青になって歩き出
「分かった」 そのまま何も奪わない。 会場では私の言葉を取らず、帰り道でも荷物を取らない。 必要な時には、たぶん頼めばいい。「次のテスト結果、社外へ出せる範囲になったら見せる」「見せられるところだけでいい。無理に全部見せなくていい」 その返しが、今日は少し嬉しかった。 LATTICE SHIELDのオフィスへ行くのは、結婚していた頃以来だった。 会社は移転していて、受付もロゴも知らない。 入館証には私の名前の下に『VISITOR』と印字されている。昔は景都の机まで勝手に入れたことを思い出し、今の方がむしろ正しいと思った。 景都の会社なのに、初めて来た場所みたいだった。 物流拠点の打ち合わせが終わり、担当者が資料を取りに席を外す。 ガラスの向こうで、若い社員が景都を呼び止めた。「深見さん、これ見てもらえますか」 景都は立ったまま画面を見る。「まず結論を一文で。理由は二つでいい。三つ目は一つ目と重なっている」 若い社員は一度画面へ目を落とし、言い直した。景都は途中で奪わず、最後まで聞いてから一箇所だけ指す。「この現場の数字は残して。説得力がある。修正したら俺ではなく田島に見せて。担当はそっちだから」「分かりました」 自分で直さない。 若い社員も萎縮しているというより、直すところが分かった様子で席へ戻っていく。 景都は次の社員に呼ばれても、先ほどの資料を取り上げなかった。 私が知っていた景都なら、五分で全部書き換えていた気がする。 社員が戻ると、景都はこちらに気づいた。「打ち合わせ、終わった?」「今。何を見てた」「景都が若い社員に説明してるところ。厳しいけど、資料を取り上げて自分で直さなかった」 景都は会議室へ入り、私の向かいへ資料を置いた。「昔は取り上げて、俺が直してた。今は人数も増えたし、俺が全部見る方が遅い。俺が書き直して返したら、あいつは次も同じところでつまずく」「そういう顔、私知らなかった」 景都は平然
「そこまで言わなくていい。聞きたくなったら、こっちから聞く」 電車のライトがトンネルの奥に見える。 私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。 景都は何も謝らない。 結論の出ない十分間が、思っていたより普通だった。 業界イベントの受付で、名札を受け取った。『mellow note 商品企画 水城真帆』 その文字を見て、少し安心する。 会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。 開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」 悪意はない。 だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。「はい。元妻です」 一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」「あ、記事で見ました。失礼しました」 相手はすぐ仕事の話へ移った。「現地ではどのサイズが強かったですか」「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」 そこから五分、商品仕様の話が続く。 名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。 少し離れた場所に景都がいる。 聞こえていたはずなのに、こちらへ来ない。 講演後も同じだった。 私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。 景都は自分のブースに立ったままだ。 壇上で話す姿は遠くからでも目立つ。けれど、私の商談へ入ってくることはなかった。 イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」「ああ。君が自分で名札を出したから、俺が口を出す場面じゃないと思った」 私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出る
命令ではない。予定を変えろとも言われていない。 だからこそ、仕事中に思い出す。 夜、駅前で待っていると、景都は到着してすぐスマートフォンを見せた。「店は二つ見つけた。どっちか、気になる方ある?」 画面の下に、来月の私の出張週が見えた。景都の指がカレンダーへ一度触れ、すぐ閉じる。「今、シンガポールに行ける予定を探してた?」 景都はカレンダーを閉じた。見ていたのは会議の日程だけで、航空券は取っていない。「会いたいなら、来てもいいのに」 彼はすぐには答えず、閉じた画面へ指を置いた。「会いたい。でも、仕事で行く君を追いかけるのは違うと思った」 正しいことを言われた、というより、行きたいまま止まっているように聞こえた。「昨日、嫌だって言われたの、少し嬉しかった」 景都がこちらを見る。「俺は嬉しくない。できれば行ってほしくない」「うん。でも私は行く」「ああ。行くなら、行ってきて」 それで話は終わった。私は画面に並んだ二軒を見比べた。 夕食は候補の二軒ではなく、途中で見つけた定食屋に入る。「今日はここがいい」 途中で見つけた定食屋を指すと、景都は予約画面を探すように入口を見た。「予約してないけど、席は半分空いてる。定食屋まで予定どおりにしなくていいでしょう」「混む時間だから確認しただけだよ」 少し納得しない顔のまま、それでも私の後ろから店へ入った。 景都は生姜焼き、私は焼き鯖。 出張の話は一度もしなかった。 代わりに、新しい社員の研修が予定より長引いた話と、mellow noteの撮影でモデルの靴が一足足りなかった話をする。 嫌だと言ったからといって、毎回そこへ戻らなくてもいい。 食後、景都が会計票を取る。「今日は俺が払う。嫌だと言って空気を重くした分」「それを慰謝料みたいに精算しないで。次も言えなくなるでしょう」「じゃあ、普通に払いたいから払う」 珍しく景都の口元が緩んだ。 会計のあと、景都が
「行きたい」と即答したことを、帰宅してから何度か思い返した。 景都とのことなら、いつも時間がかかる。 会いたいのか。帰ってほしいのか。恋人と呼びたいのか。 仕事だけは違った。 現地で商品を見たい。自分が作ったものが別の国でどう使われるか知りたい。 答えはすぐ出る。◇ 翌日の夜、景都から電話が来た。『今、少し話せる? 昨日のシンガポールのこと』 私は机の上のチェックリストから顔を上げた。現地スタッフへ聞く質問は十六個まで増え、返品理由の欄だけ黄色くしてある。仕事の準備は、考えるほど具体的になる。景都とのことは逆だった。『君が行きたいなら行けばいい。止めるつもりはない』「それは昨日も聞いたよ。まだ何か残ってる?」 電話が静かになる。景都は仕事なら迷っている時間まで先に切るのに、私へ言う言葉だけは遅い。『三日会えないことだけじゃない。こういう仕事が増えて、君がもっと遠くへ行くようになるのが嫌だ』 昨日より、はっきりしていた。 私はチェックリストを見る。店舗ごとの陳列幅、スタッフへの質問、返品理由。項目が増えるほど楽しみになる。「たぶん、増えると思う。私も増やしたい」『それを聞いて、やっぱり嫌だと思った』 解決策は続かなかった。『嫌だ』だけが、通話の向こうに残った。「それ、昨日言えばよかったのに」『言ったら、君が仕事を選んだことを気にすると思った』「たぶん気にする。でも、そこまで先に考えなくていい」 私は「ごめん」と言いかけて、飲み込んだ。「それでも私は行くよ」『ああ。それでも嫌だ』 今度はすぐ返ってきた。 電話は切れなかった。行きたい私と、嫌だと言う景都が、そのまま同じ通話の中にいた。 電話の向こうで、駐車場の機械音が聞こえる。景都はたぶん車へ乗るところだ。 重くなりすぎた空気を逃がすように、「帰ったら何を食べたい?」と聞いた。『まだ出発もしてないだろ』「帰ってきた時の話。蕎麦以外で」『蕎麦が







